• 昨日は8時には人間ドックへ。検便は2回分を提出しなければならなかったが、届いていた封書を開けずに前日を迎えてしまい、その日の便はもうすでに流されていた。窓口で今日の分しか採れなかったと伝えた。明日から年末年始休みになるからということで、年明けたら採取して、再度出向くことになった。

    近所の検診施設が取れていたので、荷物は最小限、スマートフォンと保険証、文庫本だけを持って出た。待合で本を開くたびに次の検査に呼ばれてしまい読み進めることはなかったけど、細切れにされることで発見もあった。言葉、そのものしか受信できなくても、本は愉しめるということ。手のひらサイズのノートを最近は携行するようになっていたので、このことをそこにメモしておいた。これからは7時間働く暮らしを続けるのだから、何でもかんでも過集中領域までどっぷり浸からないと何もできませんという構えだと、ほんとに何もしないことになる。それはあまりにもだ。つまらない。もどかしい。可哀そう。働いてお終い。なら終わりにしようか。という顛末になることはよくあることだ。病だ。

    こまぎれ、小さい、ほんの少し。

    潜るのではなく、水面にたゆたう。

    みなもに浮かぶものを採取する。

    泡、枯れ葉、光、 食べるものもあるかもしれない。

    意味をつなげるのは得意でない。感覚をあつめて、世界を配置していく。それだけで満足する。

    意味づけは、わたしがしなくてもよかった。これからも、たぶんしなくてよい。

  • なぜかどうしても好きなカンフーができる俳優のアクション映画は、だいたい年一回程度のペースでしか見かけない。でも、そのくらいのペースでいいのかもしれない。自分の体調としてはちょうどいい。

    そろそろ動きたい。身体を先行させた顕在的な意識からはずれていくようなこと。ダンスでなくてもいいんだろう。そもそも、世間がダンスと認識しているような踊りをしていたわけでもない。あれは自分にとって、社会からの逃避、妄想、隔離、結果として鍛錬となっていたが同時に枠がなさすぎて身体の限界を超えて壊れていったけどわたしにとっては幼少期のよくない経過に対する療養でありリハビリだった、と、精神科に通院治療をはじめてから理解した。必要にせまられてつっこんでいった世界だった。若くて欲深くあきらめきれない屈折が生んだ力は切実で、それに強いられ続けた脳や内臓は、だいたい同じくらいの時期にあちこち壊れた。死ぬほどのものではないものがぽろぽろとやってきた。手術も2回した。ただの初老といってしまうこともできるだろう。

    やむにやまれずやってしまっていること。それがいい。そして、やれていたことであることも大事だ。今は、なにか記しておきたいという微かな欲が芽を出している。5年くらいかけて治療としてやってきて、毎朝というほどもできなかったが書いてきた。書きなぐりだからこそ言葉になったには違いないけど、ダンスレッスンにおけるフロアストレッチのような、身体をただ準備する行為と近いことをやっていたのかなと思う。それを次、どうしていこうか。組み上げるような行為をはじめてもいいような気がしはじめて、半年も経ってしまった。ダンスならクロスフロアでステップの練習、自分の身体のボキャブラリーで振り付けを紡ぐような段階のことができたらいいなと、ずっと、心のすみからそんな考えがこっちを観ているような気がしている。今年はフルタイム就労を継続させることを最も優先し、暮らしを組み直す意識で過ごしながらも、言葉を生む出口を掘っていた5年をこのままなかったことにもしたくなくて、この穴の先はには何かあるのだろうかとできることはないかと探っていた。

    フルタイム7時間、他者を不快にしない服に着替える、通勤、自炊、できるなら弁当、猫、洗濯して干す、ごみの分別、ゴミ出し、掃除機、薬を飲む、定期通院を忘れない、猫の運動。わたしには持て余す時間は残らない。暮らしのタスクの多さにうんざりする毎日を、どうやったらうんざりにとりこまれないか、仕方なくなんとかやってきた。どれをやめるのか、選定しながら。壊れた脳が今やこんなに建設的な思考ができるまでになっていて、自己信頼には十分に足りている。じゃあ、脳が最低限生きていくための思考以上のアイデアを生み出せるような時間を捻出してやれる体力があるかといえば、そんなことはできそうもない。

    少し調子が上向くと、暮らしのタスクを無意識の能力として飲み込めたなら、もっと今より稼げるスキルをゲットしに行くべきで、まともに社会で自立して生きていくためにはそうすべきだ、さあ、なんかやれ、と何かが圧をかけてくる。そいつに応えようとはしてみた。半端に計画を立ててみたりした。就労先の業務に関連のある、しかし自分の担当業務や雇用レベルでは必要とされない資格試験について調べテキストも入手して学習プランを立ててみたり。でも、実行しない。現状、できていない。今日は12月28日、年末年始休みに入ってしまった。焦る。焦る?やめておけ。病へもどる門なら大きく開かれている。

    結局焦り疲れて、暮らしに殺されないように、お金をつかう。なんだかんだ、お金がものをいう。療養も、無理をしないような工夫をこらすことも、思考する時間を与えることも、資金が要る。時間、それはお金だ。

    行きつ戻りつ乱高下しながらも実行して実感できたことは、わずかなお金をプールしておくには、自炊。健康には自炊。脳のリハビリにも自炊。料理、ではない。自炊を回すことです。はい、難関です。思考の体力、時間が必要。うまく継続できれば効果はとても高い。しかし、効果が高いことは負荷も高い。当然、体調がやらせてくれない日だって多い。かなり。結果、お金は、いなくなった。ちなみに、料理すること単体は趣味療養としてはとてもいい。はい、これ、かなりお金がかかります。節約にはなりません。

    良いほうに考えよう。そのお金は、わたしを休ませる時間と交換されていた。そんな半年だった。業務が合っていたことも相まって、その投資は成果を得たといえる。そのお金でとにかく安定出社だけは死守したこと、嫌われることを気にする余裕なんか無いんだよと少しの怒りを肚に据えただPCだけをみつめ目の前の処理をこなし続けられるコンディションであったこと、あと、運よく、スピードや小器用さを求められなかったことで、いつのまにか“そこに居る人”に成っていた。

    自分が居続けられる場を得られるかは、運でしかない。振る舞いは自分の選択だといえるかもしれないが、その振る舞いには限界がある。それが場とマッチするのかしないのか、マッチするまでの時間がもらえるのか、それは運だ。

    運によってもたらされた、このだいぶ健やかな脳。この新しくも古傷だらけの脳と、老いてきた身体。ここに乗って、“わたし”は来年、何をしますか。

    午後は、トニーレオンが悪役で出演する新作映画を観に行く。運が、とても良い。

  • ただ打ち捨てられていた。大きなぬいぐるみ。ゲーセンにいるような、気安い雰囲気を醸し出すキャラクター。胸に泥水がわいてきた。ペットショップのショーケースの中で無邪気にころころ遊ぶ子犬や子猫をみたときと同じだ。助けられないくせに誰かに憤り、黒く重くなる。

  • 血に助けられているひとより、苦しめられているひとの方が多いんじゃないかな。

    映画館を出て、おそらくヒット中のアニメ映画をみるために連れだって歩く家族を横目につぶやいた。

    よくあるヒーローの寄って立つものとなる、あの目に見えない想いなどは存在しないでほしい。現実の場合、そんなものは人をがんじがらめにするだけだ。泥に足をとられて、必死に一歩進めば蜘蛛の巣の糸がまとわりつく。つながりが大事だとか、それがないと早死にだとか、そんなもん知るか。早死にで結構だ。短くても心穏やかに生きたいわ。

    どうしたら逃げられる。そればかり考えている。刺激せずに、淡々と。自分を追い込まずに、弱らせずに。まるで、幸せに導いているかのように、必要最小限だけの接触で。どうしたら私の領域を護ることができるか。本当はもっと距離をもっともっと遠くへと物理的に不可能にしてあげたらいいんだ。所有できると思い違いを起こさせたままの距離が悪い。

    映画を2本観た。本を読んだ。マイスリーで強制終了をかけて、まっさらな朝を向かえるためにちゃんと投薬も忘れずに。脳機能はだいぶ回復している。いやかなりよくなっている。あとは、自ら抱え込むことをしないことだ。ここまで来たのに。侵させないことに自分の貴重な認知機能を活用させるんだ。ちゃんとわたしがわたしのために生きろ。

  • 人目に触れることを想定してキーボード入力しながら考えを出現させると、自分はどんな言葉を云うんだろうか。自己観察にでもなればいい。

    療養のために日記のような手書きのノートは5年ほど続けている。人に見せない前提で、脳に渦巻く感情という泥水を排出する目的のもの。自分で見返すにしても体調がいいときに限られるような、字面だけで気分が悪くなるくらいの、大事にとっておくには向かないようなもの。それが今年で10冊ほどになってしまった。捨てればいいのにと思いながら、習慣化という意味ではいちおう成果物ともいえるので保管されている。がんばれたんだな、と少しは良い気分にもなれるから。ページは開かない。積み上がった束を眺めること。数の力だ。たとえ排泄物のようなものであったとしても、継続の証なんだ。

    おかげさまで、最近は体調もよくなってフルタイムで勤めに出ているし、やむにやまれず何十ページも書き殴るようなことはほとんどなくなった。リハビリとしては次の段階にへ行くべきなんじゃないか、そろそろ人目に触れる環境で意味のとおる文章を作ってみようとするのはどうか。うまくやろうとしなくていい、認知機能がましになればいい。匿名だって、紙のノートよりは外界との接点になるでしょう。経済的自立のためにも、文章を組み立てる作業に慣れたほうがいいに決まっている。

    そんなふうに自分なりにいろいろと考えてはいて、なんとか今日やっと、ドメイン取得してサーバー契約を済ませた。おとといは新月だった。愉しみに観ているユーチューブの星占いチャンネルでも、何か新しい自分を設定せよと配信をしていたし、これから徐々に満ちていく月にあやかろうと思う。療養期間で慰めにタロットと星占いにすがるようになっている。新しくできた趣味だ。タロットカードは自分でも引くようになった。カードをまぜたり切ったりする作業は子供の遊びのようで楽しい。月や星は、療養のための散歩のお供となった。本を読んで調べるのもリハビリとして。図書館では様々なジャンルの調べものができる。働くようになって金銭的に余裕ができれるようになって、関連本を自分でも購入した。小さくできることを見つけて試して、いつの間にか趣味と認知した。そんな私の新しい脳世界の、小さな神秘と、働いてお金を得ているんだぞという喜びが背中を押した。ブログ開設の費用は8千円ほどになった。1年分の空間を得た。

    .comも空きがあったが、.meにした。公開はするけど、ここは閉じた私的な場所だ。元気な人物にはなり得ないだろうし、.comなんて負担だ。考えすぎている気もするが、すべてに意味を見出したいという性質を否定しても消えてはくれないのでこれでいい。腑に落とすことで救われる。こじつけでも自己満足でもいい。自ら満たして認めていく。自分のペースを見守る。低空飛行で、いつでも不時着する構えでいる。そして、いつでも戻れる。そういう空間を設けたんだ。月当たりなら700円ほどの維持費用。安めのカフェチェーンでコーヒーにプチスイーツを足すくらいの金額だ。大丈夫だ。経済的身の丈も護っている。

    さっそくAIカスタマーサポートにたよりながらワードプレスの最低限の設定を済ませ、今打ち込んでいる。タイピングは苦にならない。でも、やはり文章をちゃんと作るのは大変だ。今何度目の修正だかわからない。ほぼ半日ずっとちょこちょこ直している。脳の各部門が、言葉の統制をとるために手を取り合い目一杯働いている。お腹がすくのでそれがよくわかる。すごいスピードでイメージが蠢いている。事情などお構いなしでぽこぽこ出て折り重なってあっという間に居なくなり、主語だったであろうものが迷子になって浮いていて述語らしきものは何かを命令しては逃げていく。まともな人格に成るんだ。辻褄を合わせろ。

    とりあえず初回はテキトーに一本投稿して終えるつもりだったけど、甘かった。こんな混沌から適切な言葉を取り出して文章と呼べる体裁に仕上げるまでに、人は瞬時に膨大な判断を積み重ねているということを理解した。健康な脳は言葉の洪水の蛇口を備えているんだ。蛇口が開きっぱなしの状態でも受け取ってくれるのは、公的な支援者やカウンセラーくらいだ。それだってちゃんと限度があるんだから。ああ大変だ。テキトーなんてものは手練れの技だったそうだった自分には特に難しいやつだ忘れてた。

    そのうえ、なんらかの意見を述べるだなんて。自分の気持ちなのか他者の言っていたことだったのかさえよくわからなくなるのに。激しく今渦巻いている感情なんかは捕まえやすいけど、そういうものはノートには書き落とせても人目に触れさせるものじゃない。そのまま出したら凶器にもなるだろう。対象を限定していない書き方でもその可能性はある。

    そうなると、やっぱり、食べた物とか読んだ本や観た映画とかね、ペットのことなんかがいいってことになる。私念ダダ漏らしはなあ。

    でもな・・・。

    スリップノットを再生して、猫のことを書いてみようとしたけど。なんか違うから今日はここまでに。今月のカフェ代は成就したよ。